栗のお話 栗の歴史

栗のお話 栗の歴史

日本の栗について

栗は石器時代の縄文遺跡から炭化した栗が発掘されていることから、9000年も以前から日本に栗があったことがわかっています。

和名「くり」は黒実(天武天皇の時、稗田阿礼という婦人が語り部として記憶した日本古代から伝承してきた伝説、物語、歴史等を天皇の命によって日本歴史として編纂した古事記の中にクリを黒実と記載している)すなわち「くろみ」の意にして「ろみ」の反しは「り」なれば「くり」となるということになります。

栗は奈良時代の天平宝寺年(758年)の文書によると、米の1升が5文に対して栗は8文とされていました。持統天皇は699年に栗を全国に植えることを命じています。その当時の栗の村が現在も栗栖という地名となって残っています。

丹波地方は「栗のふるさと」といわれ、栽培歴が最も古く「古事記」や「万葉集」にも記載され、米の代わりに年貢として納められるほど貴重な穀果類でありました。平安時代の初め、十世紀の後半につくられた「延喜式」という法典では諸国からその他名産物を種々宮廷へ貢ぎ物等として持ってあがるように定めていますが、丹波の国は生栗やその栗の加工品をおさめるように定められていました。

戦国時代、甲斐の名将武田信玄は戦乱が連続してその治世いまだに安定していないときも、地方産業の興隆と兵糧備凶食糧としての「クリ」に着目して、領内笛吹川の上流地域にクリの栽培奨励を行い軍糧として租米に代えて納入させたのでその生産は松里郷を中心に拡がったものであります。そのころにはすでに勝ち栗として加工していたようで1561年上杉謙信との川中島の対戦に信玄の陣中へ快川国師より勝ち栗を贈った書状が松里の恵林寺に蔵されています。武田の滅亡後、豊臣時代1594年、甲斐22万5千石の封を受けた浅野長政は武田の政治を尊び、産業の振興に意をそそぎ甲斐の八珍果としてクリ・リンゴ・カキ・ザクロ・ナシ・ギンナン・モモの栽培を奨励していました。

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